沈黙

 隠れキリシタン遺産が世界遺産に登録されたころ、長崎に旅行に行こうと友人と計画を立てた。すぐに行くと混んでるだろうし、ちょっと時期をずらして4月上旬に行くことにした。

長崎に行って教会を見るにしても、私の隠れキリシタンの知識は中学校のころに社会の授業で習った「踏み絵」止まりであったので、事前学習として遠藤周作の沈黙を読むことにした。

沈黙 (新潮文庫)

 映画化されたときに名前だけは聞いていたが、テレビで流れる陰鬱そうなCMに、痛いのと怖いのが嫌いな私は絶対見ないことを誓っていた。しかし、知識もなく旅行に行くのはつまらないので、びびりつつ小説を読むことにした。

本の内容を簡単に説明すると、キリシタン弾圧が強くなった日本で行方不明になったフェレイラ神父を探し、主人公のロドリゴ神父がこっそり日本に上陸して探すストーリーだ。役人に見つかれば即監獄行きの死と隣り合わせのミッションで、道中弾圧される日本人信徒たちを目の当たりにし、さらに自らも耐え難い境遇に身を落とす。その存在を信じ無残に死んでいく信徒たちを前に、それでもなお「沈黙」を続ける神とは、なぜ神は「沈黙」を続けるのかというロドリゴ神父の葛藤が大変おもしろい。

出てくる大半の信徒は神を信じ、神のために死んでいくのだが、その中でも自らを「弱き者」と称し、自らの保身のために踏み絵も踏みまくるキリシタン崩れのキチジローというキャラクターが大変魅力的だ。キチジローは弱くて惨めな存在として書かれており、ロドリゴ神父も大変嫌そうに接する。神父さまはすべてに優しく平等であるものだと思っていたのだが、「こんな奴にも優しくしなければならないのか?」といういらだちを隠せないロドリゴ神父の人間らしさにちょっと笑ってしまった。神父でも嫌なものはあるんだな。ただ、実際に踏み絵を前にすると、大半の人は自分の命かわいさに、キチジローのような態度をとってしまうのではないだろうか。キチジローの存在が、この話をただ単に弾圧されてかわいそうなキリスト教徒の話以上に、信仰とはという大きな問いについて考えさせる話にしている。

また、日本のキリシタンたちが信仰している神は、神父たちの伝えた神と本当に同一のものなのか? という問いも大変興味深いものだった。 日本語が不自由な時代はうまく布教できたぞしめしめと思っていたのに、いざ日本語に詳しくなってよくよく聞いてみると、教えたはずの神は別のものに変容していたという。クトゥルフ神話かな? SAN値も減りそうだ。

登場する神父たち全員にいえることだが、神に仕える者のおごりのようなものを感じた。寛容さがない。これは私がキリスト教徒ではないからの感想だと思う。

小説が面白かったし、先に見た友人が大変良かったと言っていたので、怖かったが映画も見た。

文章だけでは読み取れていなかった内容も、映像にされるとわかりやすくて理解が進んだ。映画も大変良かったのだが、キチジローのどうしようもなさとロドリゴ神父のあたりの強さが若干少なかったのでやっぱり小説も読んでほしいと思う。

メインの長崎旅行だが、とても良いところで楽しかった。気候のおかげか4月上旬だというのに桜も満開でとても見応えがあった。教会の敷地にはかならずと言っていいほど桜の木が植えてあり、海外では見られない桜と教会のツーショットが絵になっていた。今回行った長崎天草の教会はどこも土足厳禁で、靴を脱いで上がらなければならなかった。海外の教会にはない古びた靴箱とすのこが良い味を出していた。